四技能型英語外部試験導入延期について


内田 浩樹(うちだ ひろき)

 

 国際教養大学大学院 英語教育実践領域 教授

 


大学入試英語外部試験活用が2024年導入を目指すとして延期されたことについて、どう思われますか。

 

「身の丈」発言で、野党が糾弾に躍起になっている姿に違和感があります。

大学入試における経済格差は、外部試験の有無に関わらず存在します。私学をいくつも受験するのには、費用がかさみます。塾に行けるか否かも経済力が大きなファクターです。むしろそちらの方が大きな問題でしょう。

仮に外部試験の価格を1回1万円としたら、5回でも5万円。塾の月謝と比較したらどうでしょうか。政権争いに受験機会の不平等を利用していると批判されたら、野党はどう反論するのでしょうね。

 

私は、現時点での外部試験導入に賛成しているわけではありません。むしろ激しく怒りを感じています。同時に、このタイミングでの延期決定にも苛立っています。

 

これまで、日本は何事においても慎重でした。スピード感には乏しいが、そのぶん事故が少ない。教育においてもそうであったのですが、小学校への外国語活動導入のあたりからその美徳が損なわれてしまったように感じます。教員の育成など、具体的なプランもないまま始まった外国語活動は、まもなく「教科」になろうとしています。

 

推進力を発揮することと、見切り発車することは同義ではありません。

 

英語四技能を測定する大学入試を導入すること自体については、どう思われますか?

 

これについては、いくつかの理由が考えられます。

 

センター試験を含む現在の入試が、適切に受験者の英語運用能力を測定していない

 センター試験では、アウトプット能力がまったく測られていないことが問題視されています。しかし、インプット(リーディングとリスニング)の能力が伸びているのに、アウトプット(ライティングとスピーキング)がまったく伸びないなんていう学習をすることは、ほとんど不可能です。程度の差こそあれ、4技能の素地は基本的に比例して伸びます。それらの技能を演習する機会があるかどうかで、4技能の運用能力の差が際立ってくるのです。

インプット中心の2技能型試験で高得点を取っていても、書けないし話せないという学生がたくさんいますが、アウトプット活動の訓練を一定量積めば、スピーキングとライティングの能力はほぼ確実に伸びます。逆のケースはあまりありません。

 

極端な言い方をすれば、基本的に現行のセンター試験で著しい不具合があるとは言いがたいということです。

 

その観点では、大学の責任も相当に大きいと言えます。

英語ができないことをすべて高校の英語教育に責任転嫁するのは妥当ではありません。

高校が育ててくれた素地を伸ばし切れていないと考える姿勢が大切です。

大学では教員が修士以上の学位を有していることが過度に重視されていて、まったく分野違いの教員が英語科目を担当していることもあります。

 

一方で、すべての大学で英語のコミュニケーション能力を重視する必要もないという考え方もあります。英語を専門としない学部・学科であっても、英語能力を伸ばすプログラムを持っている大学、そうでない大学が存在していて、自分の将来設計に合わせて受験生がいずれかのタイプの大学を選択するということでいいと思います。

 

センター試験では国際基準で測れない

 大学入試が国際基準に則している必要性をあまり感じません。実情では、GTECか英検の受験が主流になろうとしていた状況を見ても、国際基準という考え方には当てはまりません。

また、どんな試験にしても、結局のところ、現場では授業が対策講座化することが避けられません。

 

対策講座のような授業を批判する向きもありますが、対策講座が、コミュニケーション能力を育成できるような中身になっていれば良いのです。点を取るための訓練=非実践的」という図式ではなくて、「試験で高得点を取るための勉強=アウトプット能力の育成」という観点で授業を組み立てる力がこれからの教師には求められていくのだと思います。

 

大学入試を四技能型にしないと高校の英語授業が変わらない

大学入試があるからという理由を盾にして文法訳読法の授業を堅持しようとする英語教員を動かすという目的で、4技能型の大学入試の必要性を説くことには賛成しかねます。

高校の授業は、大学入試のためにあると公言するに等しいことだからです。

大学入試に含まれない科目では何も身につけさせなくてもいいということでしょうか。

受験という「脅迫」がなければ、生徒を動かすことができない教師の指導力が問われるべきでしょう。 興味のない生徒、英語など自分の将来には必要ないと思っている生徒に、学ぶ楽しさを知らせることこそが教師の役割であると考えます。

 

世論も教育を受験科目中心で評価しないように留意する必要があります。

家庭科や音楽が教育課程の中に位置づけられているにもかかわらず、大人になってリンゴの皮も剥けない人がいることや、ピアノのキーをたたいた音を聞いて、それがドなのかミのフラットなのかもわからない人ばかりだということも問題視するべきだと思います。受験科目ばかりに目を向けて、教育の本質を見ていないのは、実は世論なのかもしれません。

 

技能が育っていないのは英語だけではありません。

英語ではできないことが目立つだけのことです。

 

 

外部試験導入に端を発した英語教育論争ですが、これは、英語に限らず、教育そのものに対する世論の視点というか、マインドセットを変えていく機会にしたいですね。

 

みんながバレーボールを上手にできるようになる必要がないように、みんなが英語を流暢に話せるようになる必要もないでしょう。それぞれの生徒には能力差もありますし、スタート地点も違います。ですから、到達点は、さまざまであっても何ら不思議ではありません。

ただし、流暢に話せるようになりたいと思っている生徒を伸ばせない教育ではいけませんし、自己紹介すら英語で出来ない生徒ばかりではいけないということだと思います。

 

日本人の教育に対する視点は、高い到達点の均一性にこだわりが強すぎるように思います。教育が求める最低ラインをクリアさせることに主眼を置くことで、教育が呪縛から解放されるような気がしてなりません。 

(2019.11)



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